昭和44年06月14日 朝の御理解
御神訓 一 道教えの大綱
「神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。」
信心は親に孝行するも同じこと。本気で親に孝行してみなければね。その金光様のご信心は分かりません。親に孝行するも同じ事と仰るのですから。本気で親孝行してみる。誰も別に親不孝しようと思うておる者はおりません。親にいっちょ心配掛けてやりましょう。ひとつ親に難儀な思いをさせようなんていう子供はおりはしませんけれどもね。本気で親に孝行しようと思うものは非常に少ない。
まぁ親孝行なひとがあって、親の言いなりにいわば撫でたり擦ったり、さぁお小遣いをあげたり、温泉に行ってもろたり、百味の飲食を前に並べてあげたり、良い着物を買ってあげたり、そう言う様な事でいっぱしの親孝行をしておるという風に、思うておる人も沢山ありますよね。なかなかあっちはなかなか親孝行じゃと。けどもその程度の親孝行ではいわゆる、神はわが本体の親ぞと仰る。信心は親に孝行するも同じ事と。天地の親神様へ対するところの親孝行はそんなものでは分からない。
親に孝行すると親に孝行するということ。だから結局真の親孝行というのはどう言う様な事かと。そこを追求さして貰わなきゃいけん。小倉の初代桂先生は「親に孝行をして神に不孝をし、親に不孝しておる氏子がある」と仰っておられる。「親に不孝をして神に孝行をし、親に孝行をしておる氏子がある」とこう仰る。大変まぁ意味深長なね。今私が申しますように、そらもう本当に親の言いなり。いうなら撫でたりね擦ったりする事が親孝行だと思うてね。神様より親を第一ににする。
そして結果においては親不孝をしておるとこう仰る。そういう例はもう世間には沢山ありますよね。私のもう以前のところいわゆる草野町ですね。に大変まぁ親孝行な人がありましてね。そのお父さんというのが非常にそのう奥さん、不が悪くて次々と奥さんをいわゆる、お婆ちゃんを亡くされる。もう随分と年をとられて七十幾つもなられてからだったでしょうか、またお婆ちゃんがなくなられたから、若いいわゆるお婆ちゃんを迎えてやられて、そしてまぁ新婚旅行じゃないですが、別府にその旅行にやられた。
もう本当にあげな親孝行な息子をもっちゃるけんあの人は幸せだと、いわば近所のものも羨望の的になるように、まぁ大事にさせて頂いておられた。ところがその旅行をされたその晩別府の温泉の宿で、お風呂の中にちゃんと浮いておられた。亡くなられた。というようにまぁそういう例は幾らもありますね。桂先生が仰るのは親に孝行をしてですたいね。神に不孝をし結果は親に不孝をしておるということであるね。そこで例えば親に不孝をしてと、例えばまぁ私の例をとると、両親が私に修行の最中に申しました。
「あんたも商売をすりゃ一人前の商売が出来る。金光様の信心止めよとは言わん。このままで行くなら、家はもう日干しになってしまわんならん。あんたがどうでもそうして信心信心、神様神様というごとあるなら、私共も考えんならん。こりゃお四国参りなっとんせにゃ出来ん」とまで、私の父は申しました。もうそれを聞いておって私はですね。もうなんか知らんけれども、もう可笑しくて可笑しくてしようがなかった。あぁお爺ちゃん今に見なさい。
さぁ御祈念御祈念というて、まぁ家族中の者で御祈念をさせて頂いて、御理解でも頂いておりますと、はぁもうひと頑張りでもしようかと言うて、家族中のものが頑張った。私はですね、いわゆる神に孝行をしておるということが、いっぱしで私は桂先生のその例えば御教えを信じておった訳です。神様に一生懸命の孝行しようという、その一念に燃えておるから、親孝行は神様がさせて下さるんだとね。自分がする親孝行じゃ駄目だと。神様がさせて下さる親孝行じゃなからにゃいけん。
なら現在私の両親がね、父親が来年が尺引きですか。母が八十一歳。おかげで健全健康で、とにかくまぁおかげを頂いております。なら私が別に毎日親の部屋に行って、撫でたり擦ったりしてやる訳ではなからなければ、どうでもないですけれども、なら偶々行ってみてから、おかげを受けておるなぁと思うです。誰かがお爺ちゃんお婆ちゃんにと言うて、まぁ年寄りの口に合うようなものを、みんなが持っていって下さったり、まだ色んなはぁ座布団という人お布団という人。
いうなら私は出来ませんけれども、神様が言うならば百味のおんじきの中に、過ごさしておって下さると言う様なおかげを受けておる。神に孝行をしてね親には不孝のようであったけれども、そしてそののちに親に孝行をしておる氏子があるというその氏子に、私はならして頂いたと言う風に自分では思うとります。だから人間心でいう親孝行というのとは大変違う訳です。そこでです私共が本気で親孝行をしたいと、そしてその本当の親孝行とはどういう様な事かと。それは先ず私がです。
神はわが本体の親ぞと言う様な所を、ひとつ本気で分からしてもらう。それから本当の親孝行は出来るのですよ。神はわが本体の親だと。だから金光様の信心を本当に頂かなければ、真実の親孝行は出来ないという事が言えますよ、極言すると神はわが本体の親と。そこが分からなければ本当の親孝行は出来んと私は思う。そこでです神はわが本体の親ぞという、その神様を分からして頂くという事。如何に私が親じゃと言うてもですね。私はそんな親は見た事もなか会うた事もなかと言うたらそれまでなんです。
金光様の信心は本当に、親と子が手を取り合うて、いわば親であったか子であったかと言うところからです、本当の信心が出来ていわゆる、あいよかけよの働き合いというものが出来て来る。そこでその神様を分かる。甘木の初代がこう仰った。神様がおるとかおらんとかという人がおるがね。一遍その門を叩いてみよと。そして例えばそこでその「もうし」とね。昔でいうなら「どぉれ」とこう門前に立っておらぶと、中から「おぉ」と応えて出て来るんです。この中には人間は住んでおるまいと。
叩いても見ずに言うておる様なもの。神はね神様はね。だから一遍門を叩いてみてね。例えていうならば様々な難儀をお互い持っておるから、その難儀の事でもお願いをしてみよと。いわゆる願う氏子におかげを授けてやろうが。初めてはぁ神様じゃな神様がござったなと分かるんだと。と言う風にも言うておられますね。所がねそういう例えば成程おかげを受けた時には、神様じゃ神様じゃなからなければと言うておるけれども、又はない命を頂いた、この様な不思議なおかげを受けたと言う様なおかげを受けても。
次々と信心を止めたり薄くしたりして、いっておるという事実があるんですね。ですからそれだけではいけない事が分かります。本当におかげを受けてですよ。金光様のほんならここの合楽でもそうです。本当にここでおかげを受けた人達が、みんなここで信者になっとったら、今頃の合楽は大した事です。はぁ神様ちゃ新たかなもんじゃある、有り難い事じゃあると言うて、それこそ目に涙してその当時は喜んでおった人達がです、信心を次々と止めて行っておるじゃないか。
だからそん時だけ、なるほど神様がござったなと分かっただけじゃいかん。それが本当に親であったと分かる信心にならなければ。これはもう縁の切りようがないのです。親子の縁は切るといったって切れる筈はないです。切れる筈のないような信心をです、頂かなければならない。そこで私が思うのにですね。なら門を叩いて神様助けて下さいと、こういや助けて下さる。なるほど神様じゃという事になるけれども、そんならそうとばかりは問屋が卸さんというとこがある。
子供の言いなりにおかげを下さると言う様なね。自分の願いが願い通りに成就すると言った様な事ばかりはないという事。その時時にこれは神様も大した事はなかばいと。あん時頂いたつは腑の良かったつじゃろと、言う様な事になって来る訳なんです。ですからおかげを通して分かる神様ではいけないという事が分かる。おかげを通して分からせて貰う神様では分からない。私は今朝ね本当に自分の、まぁお粗末さと言うか御無礼というか、本当に相済まん事だと思うて。
その事を神様に一生懸命お詫びさせて頂いておりましたら、もうそれはそれはもうそれはそれはもう深さ広さ、どれだけあるやら分からんという感じなんですよね。お水が沢山讃えられてある訳です。もう鏡の様なお水。いわば水晶のあのような訳です。いわばガラスの様なもんです。その広さ深さという事がね。私の様なつまらん者が私のような汚い人間がと、こうやってお詫びさせて頂いておるところへですね。その汚い物がぽかっとそのう広い広い言うならば水面に浮かんだ。
初めてその広さが深さが分かった。それまでは分からなかった。あまりにも鏡のようにしておりますから。ははぁ神様という方はこういう風にいうならば、無色透明のお方なんだから、もうその深さを感ずると私が御心眼の中に頂いておる、その深さというものがもう限りがないのです。ずうっとそれが自分というものの汚いというものが、ぱっとそこに浮かんだ時にです。浮かんだ時にその水の深さというか、その深さがもうどこまでこの深さがあるやら分からんと言う様な状況であった。
疑えば限りがない。神様には声もなからなければ姿もない。疑えば限りないと仰る。それはもう本当に無色透明なんです神様って言う方は。もう無色透明なんです。だから分かる筈がない。ここに一杯なここに空気なら空気がありましてもそれが分からない。だから当たり前んごと思うて空気を吸いよる訳ですよ。だからここへほんなら初めてです、病気なら病気をしてみて、酸素吸入でもせにゃならんというごつなってみて、初めて空気の有難さが分かるようなもんだと私は今日思うた。
自分というものの汚さというものをです、見苦しさというものを実感して、初めてその無色透明の広々とした、どこまで深いか分からないというその、讃えられてるその水の上に、ぽっと浮かんだその汚いゴミのようなものがです。浮かんで初めてあぁ浮かんでおる私だと気が付いた。だから結局私というものが分からなければならない事になる訳です。しかも人間凡夫で相分かりませんという、人間凡夫のいわば実態というか、私の姿というものがです本当に分かる。
そこでまぁ昨日の朝の御理解、御理解三節でしたね。天地金乃神と申す事はという、あの御理解でしたね。そこで例えば昨日の天地金乃神と申す事はという事は、まぁいろいろに昨日表現しておりましたが、今日の場合です天地金乃神と申す事は、わが本体の親であるということ。天地金乃神とはです。次のはぐりますと御神訓の中に、神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞと。頼む心に隔てなく祈れと。清きところも汚きところも、隔てなく天地乃神はお守りあるぞ。本心のわが心に不浄を犯すなと。
言う様な事になる。天地金乃神とはとね。天地金乃神とは例えば、昼夜も遠きも清きも汚きもない。又は昼もなからなければ夜もない。遠いところも近いところもない。頼む心に隔てなく祈れば、そこに祈りの印が見えて来ると。天地金乃神と申す事はそれなんです。それをもっともっと身近にいうとです。天地金乃神と申す事は、氏子の幸不幸の鍵を握っておいでられる方だということにもなります。天地金の神と申す事は人間氏子の、真実の幸せを願って願って願ってやまれない方だという事になる。
天地の間に氏子おっておかげを知らずと。そういう天地の親神様が、子供の上にです氏子の上に例えば幸、不幸の鍵を握ってござるのが天地金乃神様なんだから。と言うてほんなら氏子のそれぞれにです、自分がその鍵を握っておるから、幸せにしてやりたいと如何に思われても、神様だけではどうにもお出来にならないからだということ。いわゆるそこんところに私共がですねぇ。天地の間におっておかげを知らずという事になって来る訳ですね。天地の間に氏子おっておかげを知らず。
天地金乃神と申す事は、氏子の真実幸せの鍵を握っておられる神様だから、と言うて神様だけではどうにもお出来にならんのだから、金光大神に頼んで難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれという、その取次ぎの働きというものがです、どういう事になって来るかというと、氏子信心しておかげを受けてくれよということになる。氏子信心して幸福になってくれよというのが神の願い。天地金乃神と申す事はそういうことなんだ、一番分かりやすく言うと。
天地ね空間まあぁその天地金乃神と申すことをという事をまあ、言うなら天文学的にでもですね。説明をするともっと分かるでしょうけれど、まぁそこを私が説明を出来ません。天地金乃神と申す事は、けれども私は、もうとにかくそのうおかげを受けなければならん。ために天地金乃神様という方は、人間の幸福の鍵を握ってござる方じゃから、その鍵を頂かなきゃならん。それは信心して頂くより他にないのである。氏子信心しておかげを受けてくれよと。
そこで一番最後信心は親に孝行するも同じ事だよという事。ほんなら親に孝行するという事はどういうことかという事を、先ほどからも申しましたですね。そこでそんなら親様というか、親神様というか親様とか親神様とか言う事は、大体金光教の信心ではあんまり適当じゃないですね本当言うたら。金光大神も親様とか親神様とかと言う言葉を使うておられませんもの。天地金乃神と仰っておられる。天地の親様じゃないです。その天地を主催ましますね、天地を動かしなさいます。
いうなら氏子の幸福の鍵を握っておいでられる、その大元の神様。わが本体の親というのは。天地そのものじゃなくて、天地を動かしてござる大元の神様なんです。だからどうしてもやはり天地金乃神といわなきゃ、本当じゃ妥当じゃないですわな本当は。天地金乃神。そこでその天地金乃神様がです、人間の幸せの鍵を握ってござるからということを、話を聞いて分かってもです、自分が実感としてなるほど天地金乃神様だなぁと。氏子の幸せを願いに願っておられる神様だなぁという事をです。
分からせて頂くために自分を知れ自分を分かれという事になって来る訳です。私は今朝からそれを、自分のほんなら自分というものは、どういう事かと言うと、それこそもう一遍のまぁ汚いものに過ぎないのである。言うならばどぶの中にね、ぼうふらがこうこやって浮いたり沈んだりしよるようなものよりも、もっと小さいかも知れない。そういう実態そういう汚いいわゆるくずの子われと言う自覚。私のようなものがと、人間凡夫で相分かりませずという、その凡夫の実態というものはですこの様にも汚いものだと。
その汚いものが分かった時です。初めていわばちょうど無色透明の水は分からないけれども、自分の汚いということが分かった時に、その水面に浮かんでおる、私の姿がはっきり分かって来るのだ。そしてその水面のですね、いわゆる深さ深さにもう驚いてしまうんです。そこの汚いものが浮かんでおる。それは汚いものと言う様な事が分からない間は、全然分からなかった。無色透明だからその水が。けれどもそこにその水面にぷかっとその、汚いものが浮いておるのを発見して。
初めてはぁ神様の思いの深さというか広さというか、日頃頂いておる神様とはこういう方だということが分かる。しかもその神様がです。氏子幸せになってくれよという事を、念願としておられるのですから、その神様に親孝行がしとうてたまらんという事になってこなければならん。親孝行というのはそれなんです。初めから親不孝しようというものはおりません。それでそのと言うて親孝行出来ておる者は実に少ない。いんや自分は親孝行者だと、いっぱしの親孝行をしておるようであっても。
さっきから申しますように親孝行のつもりが、却って親を早死にさせるような結果に追いやってしまう様な事で、親孝行とは言えんじゃないか。真実の親孝行とはどこにあるかと。その追求から先ず始めなければならん。そこに例えば桂先生の御教えを引用させて頂いたんですね。神に孝行をして親に不孝して、けどその先に親に孝行する道がある。そこでどうでも神はわが本体の親という事を先ず、先に分かる事が本当だということが分かるでしょう。神はわが本体の親であるということを、先ず分かるという事。
それもね頭でわかるとじゃない。実感の上に分かるのです。分かるためには自分を知れという事になった訳ですよね。自分というものも自分というものがね。この様にも言うなら、汚いものであるというね。分かってから初めて神様のいわば偉大さというかね。その神愛の深さというものを、初めてそこから分かって来る。そこでです昨日は十三日会でした。もう朝から皆さん一生懸命御用されて、それから三時から共励に移りまして、もう夕方までもう実に熱心に信心の共励をさせて頂いた。
その中でですその事が今日の、いわば核心と言うか所に触れていく、それにちょっと遠いですから、まぁ省きますとです。その中にあのう高橋正雄先生の「見る事見る事、自分を見る事」という言葉がございますね。ところが如何に自分というものを、見ろうといったってですね、そう思うてもですね、本当に自分の汚さというものが分からせて頂いて、そこから詫びの姿勢が出来てね。問題は神様とその自分の様な者がと言うところと、神様とが交流しなかったら何にもならんとですよ。
神様と私が交流する。ほんなら私と神様と私が交流するという事は、どういう事かと言うと、その交流するそのルートを辿って、おかげが流れて来る訳です。私と神様が交流したら私と神様との信心が、こう信心というそこにルートが出来るんです。それを私共がおかげおかげというルートにするから、神様の方から流れて来るおかげと、ぶっつかってから、衝突する訳です。今朝そんな事を思い出させて頂いた。ははぁこれじゃいけんということ。神様の方から私と神様との交流、皆さんと神様の交流と。
交流しだしたらですね、私共と神様とは信心というルートを辿るだけなんです。これが神様と通う一つの道なんです。それでほんなら神様はさっきから申します、氏子におかげやりとうてたまらんという神様ですから、おかげだけがずうっと流れて来る訳なんです。神様の方からの道は、それをこっちの方からおかげとやるけん、神様のこの道にちゃんと入ってしまうものだから、おかげとおかげが衝突するわけです。こちらはどこまでも信心のルート。神様の方から交流して来るのはおかげのルート。
だから無尽蔵に限りのないおかげが、ずうっと頂かれて来る訳なんです。信心さえ求めていけばね。それでも私共はほんならおかげを願わん訳にはいかんでしょうね。金がございません。体が不健康でございますと、様々ないわゆるそのおかげを願いますけれども、それをお取次ぎによって処理させて頂く。お取次ぎを頂く。だからその事はお取次ぎに任せるという事になるのです。だからお取次ぎで預かってくれる。おかげと言いよるけれども、そのおかげは預かっておるから、信心をお取次ぎを皆さんが願われる。
だからお取次ぎを頂いて帰られる。教えを頂いて帰られる。おかげを頂いて帰るのじゃない。だからそのおかげのルートというものをです、邪魔しないようになら働きを、そういう調節とって下さるところがお取次ぎの働きです。御結界の働きだと私は思う。おかげというのはもう、信心で私共は神様と交流し出したら、おかげはずうっともう流れっぱなしです。それこそおかげは降るようにあってる。それをキャッチするものは何かというと、信心なんです。
そこでほんならあぁ自分というのが分かるという事によって、神様が分かるのだから、見ること見ること、自分を見る事だけでは、本当のおかげの交流になってない。そこを見てもそれだけではいけない事が分かって、いわゆる昨日十三日会のそれを頂きますとね。自分の姿勢というものを神に向けよという事である。金光大神に向けよという事である。光の方へ自分の向きを変えよということであった。それを私はわが心が神に向こうのをというう風に説明した。
信心とはおかげを頂くのではなくて、自分の心が神様へ向かって近付いていくということなんだと。その手本であるというか、それをいわゆる金光大神に持っていく。いわゆる金光大神の生きられ方と言った様な事になって来る。金光大神へ自分の向きが変わって来る。そこに金光大神の光が私を照らして下さる。そこに初めて教えが生きてくる。自分が金光大神の光によって自分がはっきり、ここに映し出される。その映し出されておるその姿が、教えという鏡にはっきり映る。
そして初めて自分という者の、実態が分かる。そしてこの様なお粗末御無礼者であった、この様な汚い自分であったというものが本当に分る。そこから本当の神様が分かるという事を、今日私は申しましたですね。そこからですそこからその神様に対するところの、憧念心というですね、憧れの念今まで知らなかった親があったのですから、もう火の付くような思いでその神様を慕う心が生まれてくる。そこからです神様の思いに、こちらが本気で添わせて頂こう。
神様のお喜び頂ける事なら、どげな修行もいとわんという事になって来る。そこにです修行の尊さ有難さがある。喉の乾かない時に氷水を出されてもです、それは大変困った事である。けれども自分の喉が乾いておるときにはです、それこそ生ぬるか水どん飲んだっちゃとわん。それこそ氷水でも頂かせて貰う事によってです、水の有難さが分かる。いやその氷水のようなその冷たいものが却って有り難い。皆さんの周囲にもそんなのがありましょう。なんと言う冷たい人じゃろうか家のお母さんは。
冷淡な人が例えば、皆さんの周囲におるという事はです。これが神様のですね、神様が分かり、その神様に対するところの、いわゆる憧念心が燃えて来てです。神様がお喜び頂けることなら、どげな修行でも、いとわんというごつなった時にはです、その難儀な冷たい人に接する事がです、もう却って嬉しゅう有り難い事になるんですよ。ようも自分にこれだけ冷酷にして下さったということが、有り難くなって来るんです。いわゆる氷水の方が有り難いんです。
始めて信心が分かったという時には、そういう修行が有り難くなった時なんです。自分の心がもうそれこそ、もう煮えくり返るごとある時がある。今日はその事をあの、お抹茶の事で頂いたんです。お薄を立てるでしょう。あら茶筅でずうっとこう混ぜくる訳です。あの中を掻き混ぜる訳です。そして分の心をかき混ぜられるような時がある。けれども信心の心が、神様に矢も盾もたまらんほどの思いというものを持っておる時にはです。その、そういう掻き立てられるような時ほどです。
却って有り難いものが生まれてくる。それこそお抹茶の味じゃないけれども、それの方が却ってなんと言うかね。いわば平穏無事ばかりの日では何かこう物足りない。むしろそこに修行がある方が、有り難いという事になってくるのです。だから神様が求め給う様々な修行。それをですね本気で合掌して受けれる気持ち。それにはどうしてもいわゆる私は本当の親の実体と言うものをです、私そこに使わにゃいけん。そしてその神様がです、私共におかげを頂かせたくてたまらんと思うておられる心と。
初めて知ったその神様に対するところのですね、お心に添いたいという信心と、ひとつになってです。例えば冷たいものも却って有り難い。例えば難儀がまた有り難いと言う様な信心が生まれて来る。そこから私は本当の親孝行ね、神様へ対するところのいわばいうならば十三日会の精神ですよ。神様の願いが成就する事のためならば、自分というものなんかは空しゅうしたのが、昨日の一日の皆さんの姿でした。
朝から一日を神様の願いが成就する事のためならば、自分というものを空しゅうして、十三日会御用をさして貰うた、その後はどうすれば親神様が喜んで下さるじゃろかという事を話し合うというのじゃから、このくらい神様が喜んで下さることが、他にはなかろうと私は思うのです。そうでしょう。信心は親に孝行するも同じ事ですね。神様の願いが成就する。合楽ではその十三日という日をね。神様の願いが成就する日の事のために、奉仕しようというのである。
このくらいな事で神様が喜んで下さるならばと、それが私は親孝行だとね。それが信心。そういう信心のルートがはっきり神様と私共との間に付くところに、信心が交流する。そしてこちらの方の道にはです、おかげがずうっと限りなく無制限に、無限大におかげが流れて来る。そのおかげをキャッチし続ける信心。それは親に孝行するも同じ事ぞやと言う様な信心を、ひとつ分からせてもらい、十三日会の狙いというのは、親神様の願いが成就する事の為に奉仕する事が。
こんなにも有り難い事だと分からせて貰う。神の願いが成就する。私共氏子一人ひとりの上に神の願いがある。その願いが成就する事の為の修行ならば、火の行でも水の行でもいとわんと言う様な信心が、私は親に孝行するも同じ事であると、言う信心だと言う風に思うのです。神はわが本体の親ぞと。信心は親に孝行するも同じ事ぞやと、いう事を今日は聴いて貰うた。
また昨日の朝の御理解三節の天地金乃神と申す事はという事。金乃神と申す事は、氏子幸せになってくれよという願い。又は氏子の幸せの鍵を握ってござる。天地金乃神と申す事は、氏子人間の幸せの鍵を握ってござる方だと。そこでね天地の間におって、氏子おかげを知らずと仰る。そのおかげをおかげと分からせて貰うて、言うならばそこから互い違いのない生き方。いうなら見当違いのない生き方。まともな生き方。そこに見当違いではない生き方が求められる。
こで私共はほんなら自分の生き方は、見当違いの生き方ではなかろうかと、何時も反省して。そこんところをこれならば、間違いがないという線を出して、その生き方を求めていかなければならん。そこから信心は親に孝行するも同じことぞやと仰る、親に喜んでもらいとうてたまらん。親の喜ぶ顔を見て自分の喜びとする。そういう信心が出来るところに、神様もまた氏子の喜ぶ顔を見て喜びとされるという、あいよかけよの働きというものが生まれて来る。
しかもそれは無限大に無尽蔵に広がっていく。そういう信心が頂けておらなければです、今日私が申しますですね、おかげを通して知った神様では、必ず終わりが来ると。はぁこういうおかげを下さる神様じゃから間違いない。おかげでない時にははぁ神様もいい加減なもんじゃという事になって来る。そこで信心を通して頂く神様じゃなからなければね、本当の事じゃないと言う様な事を、今日は皆さん聞いてもらったですね。
どうぞ。